朝型人間になれない

昔から朝が苦手だ。朝日を浴びて清々しく一日の始まりを切るよりも、朝日を見なくてもいいからいつまでも寝ていたいタイプである。朝は寝るためにある。自然の摂理に反しているし、自律神経のスムーズな切り替えのために朝日を浴びた方がいいのは分かるが、そのメリットよりも睡眠を取ってしまう。

さらに言うと、朝早く起きてそこからの時間を過ごすのが本当に苦痛である。こんなに時間がある、と思うよりも、これから長い長い一日を過ごさなければいけないのか、と思ってしまう。自分には24時間は長すぎる。そこまでやりたいこともない。半分くらいで十分である。

こんな感じなので、まあそうなるだろうという感じではあるが夜が好きだし、夜型人間である。正確には午前より午後の方が好きで、日暮れから深夜あたりが一番自分の時間を生きている感じがする。散歩もその時間に行くのが落ち着くから好きだ。午前中に集中できた試しが一度もないし、怠くて眠くてぼーっとしている間に終わってしまう。

たまに早く起きて忙しく一日を過ごすと、ああ、すごく普通の人間っぽいという充実感を感じるが、それよりも強い疲労感と怠さが上回ってくる。しんどい。早く寝たい。その感情に勝つのはなかなか難しい。

とはいえ、これから日照時間が少なくなってくるので、相対的に夜は長くなる。夏のリズムで過ごしているとあっという間に日が暮れてしまう。なのでもう少しリズムを早めにずらした方がいいのかもしれない。そんなことを思いつつも、秋の夜長とはよく言ったもので、夜更けに小説やドラマ、音楽の世界に入り込んでしまうのであった。

「おもしろい人」になりたかったのかもしれない

在りし日の自分

なんだか深刻そうなタイトルになってしまったが(コミュニケーションが下手的な)、別に深刻な話ではない。

自分は物心ついたころから「おもしろい」と言われて育った。なんだかよく分からないが、やることや言うことが独特だったらしく、それを見た家族がゲラゲラ笑っていたので、「なにがおもしろいんか分からんけどおもしろいらしい」という自認で過ごしていた。狙ってやっているというよりはちょっとした仕草が変とかそういう理由で笑われていた(らしい)。

別にお笑いが好きなわけでもないし、おもしろい人になりたいと思っていたわけでもないが、京都の田舎で育ったので、やはり関西に生まれた者、お昼時に吉本新喜劇が流れていた地域の者の宿命というか、「喋ることがおもしろくなければいけない」「ツッコミとボケは分担しなければいけない」「ヤマとオチはなければいけない」みたいな共通認識はあった。しかし自分は口下手だったので、別に他者にそれを強いるわけでもなく、主に姉との漫談くらいでしか意識していなかった。

自分の中で「おもしろい人」というのは、なりたい人物像の優先順位で言うと2番目くらいの位置にあった。どちらかというと「真面目な人」と思われたかったので、そう見えるように、言葉遣いは意識をしていた。小学生の頃からネットに入り浸っており、歳の割に落ち着いているね、冷静だね、とネットでは言われることが多かったので、気づいたらそう言われることの方が嬉しくなっていた。

自分の中の「おもしろい人」の優先順位がそれを上回ってきたのは22歳の時である。初めて入ったWeb系の会社(このブログサービスの運営元の会社なのだが)の人たちが、びっくりするほど(いい意味で)変な人たちばかりで、強烈なエピソードに事欠かず、毎日4コマ漫画のネタにできそうな出来事の連続だった。そこで長らく眠っていた関西人の血が目覚めたのか、環境に順応しなければいけないと思ったのか、「いかに変な人になれるか」と毎日真面目に考えるようになった。特に、先輩のデザイナーでそのジャンル(変な人ジャンル)で突き抜けた方がいたので、「この人にはかなわない…」と謎の敗北感を味わっていた。

その会社に入ってから、話し方や文体もかなり周囲の環境に影響され、気がつけば独特の共通構文を喋るようになっていた。オフィスが京都市にあるので、地元にいる姉の友人から「お前は南部に行って変わった」「南にかぶれてしまった」「南かぶれ」と言われたりしたが、どちらかというと南に行ったからではなく会社の環境に影響されて変わったと思う。会社を退職してからはその話し方の癖は抜けたが、ふとした時にちょっとだけ出てしまうことがある。

しかし、フリーランスになってから色んなクライアントさんと話すたびに、なぜか「キューピーさんって独特ですよね」と言われることが多いのである。だいたいはTwitterに書いている内容が変というところから始まるのだが、ハンドルネームの由来だったり、何回か話しているうちにそう言われることが多い。最近だと、1年ほど前に気まぐれで始めたポッドキャストを聞いたというクライアントさんから「かなりおもしろいですよ」「流し聞きしていたら笑っちゃいました」「話術がありますね」と絶賛され、嬉しいと恥ずかしいが入り混じって妙な感情になってしまった。

自分はずっと美大を出た人に憧れの感情があって、デザインの基礎を学べるということもだけど、美大に行く人はちょっと独特な人が多いという偏見があり、その人たちのコミュニティーがあることが羨ましいなと感じることが今でもある。みんなちょっと独特だけど生き生きとしている気がする。そんなことを思っていたら、もしかしてずっと「おもしろい人」になりたかったのかもしれないな、ということに気づいた。というよりは、「おもしろい人」としての居場所を確立したかったのかもしれない。

というのが、今日Xでおすすめに流れてきた、「月曜から夜更かし」で放送された美大を出た絵の上手い女性が、美大を出てないけどちょっと変で味のある絵を描く人に衝撃を受けて、その人のいる会社(コープさっぽろ)に転職するという話を見て思ったことである。「おもしろい人」というより「ちょっと変な人」が自分の憧れの立ち位置なのかもしれない。なんだかよく分からないが、ちょっと変というのは魅力があると思う。

そんなことをわざわざブログに書きたくなったのであった。

34歳になった

f:id:kewpiedesign:20260903000729j:image

今年も誕生日を無事に迎えることができた。34歳という響きを受け入れられない、信じたくないところはあるものの、まずは無事に歳を重ねられていることに感謝したいと思う。

33歳は色々つらい一年だった

正直に言うと辛かった。33歳というよりも2025年が自分にとってやや厳しい年で、今までやってきたことが通用しなくなり、考え方そのものを変えざるを得ない機会が訪れた。代表的なものにAIの普及・台頭がある。

正直に言って、仕事の問い合わせは目に見えて減ったし、自分の周りでも仕事に影響が出ているという人をちらほら見かける。フリーランスでいることが厳しくなり、会社員に戻るという選択をする人も増えてきた。逆に今までがボーナスタイムだったのだと思うようにして、今年からは自分の動き方を変えていった。その結果、新しい繋がりが生まれて、受動的ではない形で仕事のご縁が生まれている。今までのように、ただ依頼を待って、来た問い合わせに対して打ち返していくだけという動き方では、今後はなかなか厳しそうである。

とはいえ、別にAIを敵視したりはしておらず、悩み事を相談したり、自分の性格を分析してもらったり、業務で苦手なことをやってもらったりしている。デザインは自分がやるのでその手前のことをやってくれ、というような頼み方もしたりしていて、そこは楽になっている。ワイヤーフレームを作ってもらったりすることが多い。

あと、やっぱり仕事以外でも動いていくことは大事で、自主制作を頑張ったり、ここ以外のブログ(note)を動かしたりすることもやっていきたいと思っている。

辛いのは仕事面で、健康面では今のところあまり問題なく生きている。自分の胃腸を理解した食事の摂り方ができるようになり、口に入れるものにはそこそこ気をつけている。頭痛もホルモンバランスの周期的なもの以外はあまり感じることもなく、他にどこか痛いところもない。ただ年齢的なものか脂肪が落ちにくくなっている気がするので、そこはなんとかしていきたい。あと人間ドックというか健康診断は本当に一回受けないとまずいのでなんとか受けたい。

34歳の目標

顔が童顔であり、「想像していたよりお若くてびっくりです」と言われることが多々あるのだが、年齢と顔のギャップは今後どんどん離れていき、子どもオタクおばさんのようになってしまうのではという心配がある。ので年相応な見た目を目指していきたい。服は別に30代っぽいので、顔をなんとかしたい。メイクかな……

生き方としては、健康を第一にしつつ、今後のデザイナーとしての身の振り方、というか在り方を「ブランドデザイナー」に近づけていきたいと思っている。というのも、チャッピーに自分の強みを相談したところ「Web、グラフィック、ロゴとマルチにやれるのがあなたの強みなので、ブランドデザイナーを目指した方がいい」と言われて、それもそうか、と腹落ちしたからである。ただ器用貧乏になりたいわけではなく、全てを一定のクオリティーまで持っていけるようになりたい。仕事以外での鍛錬もしつつ、実績を積んでいけたらと思っている。

総括

仕事面で試練の多い33歳ではあったが、逆にそれ以外で何かあったかというと特にはなかった。大きな怪我や環境の激変などもなく、平穏ではあったので、平穏であることに感謝したい。30代後半が間近に差し掛かっているので、体が若いうちにやれることはやっておきたいとも思う。

あと、改めて人との繋がりは大事だと思っている。特に仕事はそもそも依頼がないと生まれないものなので、自分を見つけて仕事を依頼してくださる方には本当に感謝しているし、その方に対して十分なものを返さないといけないとつくづく思っている。

 

というわけで、34歳も頑張って生きていくので、何卒よろしくお願いします。

看取り

6月6日の22:30前、父の電話が鳴った。
父の母、つまり祖母の血圧が40まで低下しているから急いで来て、とのことだった。

もともと祖母は年明けから体調が悪く、1週間前からいつ急変してもおかしくないと言われていた。父は先に何回か様子を見に行っていて、今日家族全員で会いに行く予定が、想像より早くタイムリミットが来てしまった。

シャワーを浴びようとしていた時にその知らせを聞き、すぐに家族で出発する用意をしていた。しかし、もともと人が死ぬかもしれない状況が苦手な上、持病のパニック障害の症状がある自分は著しい不安と恐怖に駆られ、行くのが怖い、無理かもしれないと思った。

そうは言っても現実問題、時間は待ってくれないし、自分がこうしてる間にも祖母の命の灯火は消えかかっている。父は親の死に目に会えないかもしれない。そう思うと怖くても腹を括るしかなかった。

家から祖母がいる病院までは1時間半。同じ京都府内で、下道で行くこともできるものの、今回は急いでいるので高速道路を走るということになった。
自分はパニック障害になってから高速道路が大の苦手で、2018年からはそもそも京都方面にも出向いておらず、かなり長いブランクがあった。
とはいえ、散発的に別の高速に短時間だけ乗って移動したりはしていたし、夜の田舎の高速道路はほぼ車がいないので大丈夫だと言い聞かせた。

高速道路に乗っている最初の30分は、色んな考えが頭をよぎり、手が震えすぎてスマホをまともに触れなかった。呼吸も浅かったが、以前のような「発狂するかもしれない」「死ぬかもしれない」という猛烈な恐怖はなかった。気づけばパニック障害歴も10年を数え、ベテラン選手、あるいは悟りの境地に入ってきたのだろうか。それとも毎日励んでいる腸活が功を奏したのか。とはいえなにかBGMが欲しいと思い、活動終了はしたばかりの嵐の曲のお世話になった。

「もう祖母の死に目には間に合わないかもしれない」と思った。この状況で生きていてくれ、間に合ってくれ、と願っていると、余計に呼吸がしんどくなってくるので、自分本位な考え方で申し訳ないが、常に最悪の事態を想定していた。

30分ほど走ったところでサービスエリアのトイレに寄った。このサービスエリアも長らく来ていなかった。今回の事態がなければ、また当分ここまでは来ていなかっただろう。久しぶりに来た場所は何も変わっていなかった。こんな状況ではあるが、久しぶりにここまで来れた、と思った。

トイレで呼吸を整えたところで、再度車に戻る。気圧なのかストレスなのかなんなのか分からないが、ずっと胸痛がしていた。

サービスエリアから少し走ったところで高速を降り、今度は山道に入った。だいぶ走ってから気づいたが、この道は春頃にあった南丹の殺人事件の現場の近くだった。なんとも言えぬ苦い気持ちになりながら細い林道を走っていく。

深夜なので山の影と星空しか見えない。延々と同じような風景が続く中、両親が突然大声を上げた。目の前に鹿がいた。それからというもの道に出てくる鹿、鹿、鹿の群れ。あまりにも鹿が多くてスピードを出すことができず、いつ出てくるか分からぬ鹿に配慮しながらの走行になった。この時間がおおよそ30分ほど。

終わらぬ鹿の群れと山林はいつまで続くのだろうと思ったころ、病院に到着した。車は病院関係者の車と父の姉の車だけだった。祖母がいるらしき2階の部屋の光が駐車場から見えた。

分離不安の犬も一緒に連れてきていたので、誰かは犬を見ていなければいけない。本当はこの犬の顔も祖母が元気なうちに見せようと思っていたのだが…。先に父と姉が行き、帰ってきた父に「まだ大丈夫だから見てきな」と言われ、自分と母が行く形になった。

真っ暗な病棟の中、ナースステーションと祖母のいる部屋だけが明るく光っており、恐る恐る部屋に入った。祖母は酸素マスクをつけられていて、苦しそうではあったが、目は見開いていて、まだ一生懸命呼吸をしていて、呼びかけにも反応していた。元々の体格がしっかりしているので、極端に痩せ細っているわけではなく、それが少し安心した。手を握ったらプニプニとした感触があり、シワシワの手じゃなくてよかったな、と思いながら指を揉んでいたら、突然強く握られた感覚が一瞬あった。気のせいだったのか、自分だと分かったのか。

ずっと交代で手を握ったり声をかけたりしている中、少しずつ呼吸の間隔が空いていくのが分かった。最初は口を頑張って開けたり閉じたり、力を入れているのが分かったのだが、それがだんだんと弱々しくなる。父が睡眠時無呼吸症候群なのだが、感覚としてはあのイビキに近く、止まったと思ったらまた一生懸命息をするような感じ。父のお姉さんも、その旦那さんも難しい顔つきになっていて、「もう今夜、厳しいとは言われてるんや」と小声で言われた。

覚悟はしていたものの、人の呼吸が止まるかもしれない瞬間を直視するのが怖く、少しベッドから離れて見ていた。看取りの経験はまだ11年前に老犬が死んだ時しかない。姉は母方の祖母が亡くなる場面を見ていたので冷静だったし、本人曰く「緊張を紛らわそうとすると話しかけてしまう」とのことで、ひたすら一点を見つめて動かない自分と違い、わりと喋っていた。

明らかに弱っている祖母に頑張れということが正しいことなのか分からず、横で見守っているうちに、父のお姉さんが「もう寝ちゃうんか?もう眠たいか?」と涙ながらに話しかけていた。確かに、死んでしまうというよりは力尽きて寝そうになっている感じだった。死は永遠の眠りなのかもしれない。

横から見ていても口の動きが止まっていて、ああ、もうこれは、と思っていたら、父のお姉さんが「ナースコール、呼ぼか」と言っていた。その瞬間から涙が溢れて止まらなくなった。自分は医療ドラマなんかのイメージが強くて、亡くなった瞬間に心電図のモニターから音が鳴るのだと思い込んでいたのだが、そもそもモニターがなく、素人目では呼吸と手首の脈でしか分からなかった。

「お父さんを呼んできて」と言われ、涙を流しながら車の中で犬を見ている父を母と呼びに行った。「お母さん、逝かはったよ」と母が声をかけた時、父から唸り声が聞こえて、泣いているのかと思ったら「ちょっと、出たかもしれん」と言われ、な、何が…?と聞いたら、「だ、大が……」     え?

どうやら車の中で待っている間にお腹が痛くなり、自分たちが祖母の一挙一動に目を凝らしている時、ひっそりと重大な局面を迎えていたらしい。普段滅多に腹を痛めない父が、なぜこんな時に限って。しかもよりによって実の母親が亡くなったときに。父を呼ぶ前まで流していた涙がどんどん引っ込んでいった。なんてタイミングだよ。そう思ったら父には申し訳ないが笑いが止まらなくなってしまった。祖母も大概変な人だったが、やはり祖母の息子の父も「持っている」と思った。

 

その後は父と姉に見ていてもらったが、お医者さんから臨終を告げられ、体を綺麗にしてもらうという一連の流れを終え、全員が病院から出てきた。ふと空を見上げたら、星が綺麗だった。

95歳という年齢だったので、まだまだ若いとか頑張れたのにという感じでもなかったが、去年の年末までは元気にしていたらしいので、衰え始めるとあっという間なんだな、と思った。祖母には幼少期から高校生まで一緒に住んで面倒を見てもらっていたので、その時の記憶が蘇ってくるのだが、オッチョコチョイな人だったので、どれもちょっとずつ変なのだ。今日もコロッケ〜明日もコロッケ〜♪という歌を毎日歌っていたり、料理をしながらエプロンも一緒に燃やしていたり、自分を自転車の後ろに乗せて走ってひっくり返ったり。そういう破天荒な記憶しかない。あと甘いものが好きだったなあとか。

そうやってしんみり感傷に浸りながら帰ろうとしても、行手を阻む鹿の群れがそうはさせなかった。異常な数の鹿が数メートルごとに出没してくる。調べると、夜明け前が一番鹿が活発になる時間帯らしく、その時間に餌を食べるらしい。知らなかった。あまりに鹿の多さに全員笑うことしかできず、一体なんなんだ今日は、と思った。もっとしんみりした帰路になるかと思っていたのだ。

その後も疲れたからか全員妙にヘラヘラ笑っていたが、さすがに後半からは疲れてあまり喋らなくなった。自分は祖母が亡くなった現実を改めて受け入れようとするたびに、なぜ父はどうしてあのタイミングで…と思い出してしまい、泣いているのか笑っているのか分からなかった。父には悪いが人生で一生忘れることのないインパクトがあった。

 

そしてこういう状況ではあるが、どさくさに紛れて自分はハードルを一つ乗り越えた。夜に高速道路に乗って京都まで行くという自分にとっては厳しいハードルを、なんとかかんとか乗り越えて、祖母の最期を看取ることができた。祖母に呼ばれたというか、試練を与えられたのかもしれない。不安に負けていたら間に合っていなかった。

帰ったらシャワーを浴びようとしてやめた形跡が残っており、怒涛の4時間だったのだな、と思った。布団に入ってしばらくは寝つけなかったが、そのうち眠りに落ちていった。

 

なんだか色んなことがあった一日で、今までの人生を振り返るときに記憶に残る日なんだろうなと思った。祖母の最期、父の失態、シカ天国。4時間なのに笑いと涙。いつも笑っていた祖母の力なのかもしれない。そして、祖母の最期は、本当にうっかり眠ってしまったようで、不謹慎かもしれないが、自分も最期はあんな死に方がいい、と思った。昔見た、昼寝している祖母を見ているようだった。

 

お通夜と告別式はまだなので、お別れはしていない。お別れの時は、もっとちゃんと労いたいと思う。95年間、お疲れ様でした、ありがとう、と。

夏

また夏が来る。来ようとしている。来てしまう。

その昔、浜崎あゆみが「短い夏が始まってゆく」と歌っていたが、最近の夏は長い。今年は梅雨入りする前からすでに猛暑も記録しており、先が思いやられる。

夏は嫌いではない。太陽の圧倒的なパワーを前にもはや陽気になることしかできず、メンタルは安定する。しかし突然来るゲリラ豪雨は嫌いだし、1日1日生きるのがやっとな気温の高さはしんどい。それでも木々は輝き、空は青く、雲は成長する。そのダイナミックな景色を前に人間の力などもはや無力である。

夏という季節を題材にした名曲も数多く存在する。その名曲たちをBGMに最近はなんとか生き凌いでいるが、昨年はついに40度の大台を超えた地元、今年はどこまで行ってしまうのだろう。

しかし、どちらかというと夏が来る前の梅雨が一番憂鬱である。湿度と低気圧に弱い人間にとっては苦行であるが、ここ数年の温暖化により梅雨らしい梅雨の日々はそう長くないので、そこだけは救いではある。

紫陽花は綺麗なのだけれどね

最高気温25度、最低気温15度の「ほどよい季節」の日々がずっと続けばいいのに。