6月6日の22:30前、父の電話が鳴った。
父の母、つまり祖母の血圧が40まで低下しているから急いで来て、とのことだった。
もともと祖母は年明けから体調が悪く、1週間前からいつ急変してもおかしくないと言われていた。父は先に何回か様子を見に行っていて、今日家族全員で会いに行く予定が、想像より早くタイムリミットが来てしまった。
シャワーを浴びようとしていた時にその知らせを聞き、すぐに家族で出発する用意をしていた。しかし、もともと人が死ぬかもしれない状況が苦手な上、持病のパニック障害の症状がある自分は著しい不安と恐怖に駆られ、行くのが怖い、無理かもしれないと思った。
そうは言っても現実問題、時間は待ってくれないし、自分がこうしてる間にも祖母の命の灯火は消えかかっている。父は親の死に目に会えないかもしれない。そう思うと怖くても腹を括るしかなかった。
家から祖母がいる病院までは1時間半。同じ京都府内で、下道で行くこともできるものの、今回は急いでいるので高速道路を走るということになった。
自分はパニック障害になってから高速道路が大の苦手で、2018年からはそもそも京都方面にも出向いておらず、かなり長いブランクがあった。
とはいえ、散発的に別の高速に短時間だけ乗って移動したりはしていたし、夜の田舎の高速道路はほぼ車がいないので大丈夫だと言い聞かせた。
高速道路に乗っている最初の30分は、色んな考えが頭をよぎり、手が震えすぎてスマホをまともに触れなかった。呼吸も浅かったが、以前のような「発狂するかもしれない」「死ぬかもしれない」という猛烈な恐怖はなかった。気づけばパニック障害歴も10年を数え、ベテラン選手、あるいは悟りの境地に入ってきたのだろうか。それとも毎日励んでいる腸活が功を奏したのか。とはいえなにかBGMが欲しいと思い、活動終了はしたばかりの嵐の曲のお世話になった。
「もう祖母の死に目には間に合わないかもしれない」と思った。この状況で生きていてくれ、間に合ってくれ、と願っていると、余計に呼吸がしんどくなってくるので、自分本位な考え方で申し訳ないが、常に最悪の事態を想定していた。
30分ほど走ったところでサービスエリアのトイレに寄った。このサービスエリアも長らく来ていなかった。今回の事態がなければ、また当分ここまでは来ていなかっただろう。久しぶりに来た場所は何も変わっていなかった。こんな状況ではあるが、久しぶりにここまで来れた、と思った。
トイレで呼吸を整えたところで、再度車に戻る。気圧なのかストレスなのかなんなのか分からないが、ずっと胸痛がしていた。
サービスエリアから少し走ったところで高速を降り、今度は山道に入った。だいぶ走ってから気づいたが、この道は春頃にあった南丹の殺人事件の現場の近くだった。なんとも言えぬ苦い気持ちになりながら細い林道を走っていく。
深夜なので山の影と星空しか見えない。延々と同じような風景が続く中、両親が突然大声を上げた。目の前に鹿がいた。それからというもの道に出てくる鹿、鹿、鹿の群れ。あまりにも鹿が多くてスピードを出すことができず、いつ出てくるか分からぬ鹿に配慮しながらの走行になった。この時間がおおよそ30分ほど。
終わらぬ鹿の群れと山林はいつまで続くのだろうと思ったころ、病院に到着した。車は病院関係者の車と父の姉の車だけだった。祖母がいるらしき2階の部屋の光が駐車場から見えた。
分離不安の犬も一緒に連れてきていたので、誰かは犬を見ていなければいけない。本当はこの犬の顔も祖母が元気なうちに見せようと思っていたのだが…。先に父と姉が行き、帰ってきた父に「まだ大丈夫だから見てきな」と言われ、自分と母が行く形になった。
真っ暗な病棟の中、ナースステーションと祖母のいる部屋だけが明るく光っており、恐る恐る部屋に入った。祖母は酸素マスクをつけられていて、苦しそうではあったが、目は見開いていて、まだ一生懸命呼吸をしていて、呼びかけにも反応していた。元々の体格がしっかりしているので、極端に痩せ細っているわけではなく、それが少し安心した。手を握ったらプニプニとした感触があり、シワシワの手じゃなくてよかったな、と思いながら指を揉んでいたら、突然強く握られた感覚が一瞬あった。気のせいだったのか、自分だと分かったのか。
ずっと交代で手を握ったり声をかけたりしている中、少しずつ呼吸の間隔が空いていくのが分かった。最初は口を頑張って開けたり閉じたり、力を入れているのが分かったのだが、それがだんだんと弱々しくなる。父が睡眠時無呼吸症候群なのだが、感覚としてはあのイビキに近く、止まったと思ったらまた一生懸命息をするような感じ。父のお姉さんも、その旦那さんも難しい顔つきになっていて、「もう今夜、厳しいとは言われてるんや」と小声で言われた。
覚悟はしていたものの、人の呼吸が止まるかもしれない瞬間を直視するのが怖く、少しベッドから離れて見ていた。看取りの経験はまだ11年前に老犬が死んだ時しかない。姉は母方の祖母が亡くなる場面を見ていたので冷静だったし、本人曰く「緊張を紛らわそうとすると話しかけてしまう」とのことで、ひたすら一点を見つめて動かない自分と違い、わりと喋っていた。
明らかに弱っている祖母に頑張れということが正しいことなのか分からず、横で見守っているうちに、父のお姉さんが「もう寝ちゃうんか?もう眠たいか?」と涙ながらに話しかけていた。確かに、死んでしまうというよりは力尽きて寝そうになっている感じだった。死は永遠の眠りなのかもしれない。
横から見ていても口の動きが止まっていて、ああ、もうこれは、と思っていたら、父のお姉さんが「ナースコール、呼ぼか」と言っていた。その瞬間から涙が溢れて止まらなくなった。自分は医療ドラマなんかのイメージが強くて、亡くなった瞬間に心電図のモニターから音が鳴るのだと思い込んでいたのだが、そもそもモニターがなく、素人目では呼吸と手首の脈でしか分からなかった。
「お父さんを呼んできて」と言われ、涙を流しながら車の中で犬を見ている父を母と呼びに行った。「お母さん、逝かはったよ」と母が声をかけた時、父から唸り声が聞こえて、泣いているのかと思ったら「ちょっと、出たかもしれん」と言われ、な、何が…?と聞いたら、「だ、大が……」 え?
どうやら車の中で待っている間にお腹が痛くなり、自分たちが祖母の一挙一動に目を凝らしている時、ひっそりと重大な局面を迎えていたらしい。普段滅多に腹を痛めない父が、なぜこんな時に限って。しかもよりによって実の母親が亡くなったときに。父を呼ぶ前まで流していた涙がどんどん引っ込んでいった。なんてタイミングだよ。そう思ったら父には申し訳ないが笑いが止まらなくなってしまった。祖母も大概変な人だったが、やはり祖母の息子の父も「持っている」と思った。
その後は父と姉に見ていてもらったが、お医者さんから臨終を告げられ、体を綺麗にしてもらうという一連の流れを終え、全員が病院から出てきた。ふと空を見上げたら、星が綺麗だった。
95歳という年齢だったので、まだまだ若いとか頑張れたのにという感じでもなかったが、去年の年末までは元気にしていたらしいので、衰え始めるとあっという間なんだな、と思った。祖母には幼少期から高校生まで一緒に住んで面倒を見てもらっていたので、その時の記憶が蘇ってくるのだが、オッチョコチョイな人だったので、どれもちょっとずつ変なのだ。今日もコロッケ〜明日もコロッケ〜♪という歌を毎日歌っていたり、料理をしながらエプロンも一緒に燃やしていたり、自分を自転車の後ろに乗せて走ってひっくり返ったり。そういう破天荒な記憶しかない。あと甘いものが好きだったなあとか。
そうやってしんみり感傷に浸りながら帰ろうとしても、行手を阻む鹿の群れがそうはさせなかった。異常な数の鹿が数メートルごとに出没してくる。調べると、夜明け前が一番鹿が活発になる時間帯らしく、その時間に餌を食べるらしい。知らなかった。あまりに鹿の多さに全員笑うことしかできず、一体なんなんだ今日は、と思った。もっとしんみりした帰路になるかと思っていたのだ。
その後も疲れたからか全員妙にヘラヘラ笑っていたが、さすがに後半からは疲れてあまり喋らなくなった。自分は祖母が亡くなった現実を改めて受け入れようとするたびに、なぜ父はどうしてあのタイミングで…と思い出してしまい、泣いているのか笑っているのか分からなかった。父には悪いが人生で一生忘れることのないインパクトがあった。
そしてこういう状況ではあるが、どさくさに紛れて自分はハードルを一つ乗り越えた。夜に高速道路に乗って京都まで行くという自分にとっては厳しいハードルを、なんとかかんとか乗り越えて、祖母の最期を看取ることができた。祖母に呼ばれたというか、試練を与えられたのかもしれない。不安に負けていたら間に合っていなかった。
帰ったらシャワーを浴びようとしてやめた形跡が残っており、怒涛の4時間だったのだな、と思った。布団に入ってしばらくは寝つけなかったが、そのうち眠りに落ちていった。
なんだか色んなことがあった一日で、今までの人生を振り返るときに記憶に残る日なんだろうなと思った。祖母の最期、父の失態、シカ天国。4時間なのに笑いと涙。いつも笑っていた祖母の力なのかもしれない。そして、祖母の最期は、本当にうっかり眠ってしまったようで、不謹慎かもしれないが、自分も最期はあんな死に方がいい、と思った。昔見た、昼寝している祖母を見ているようだった。
お通夜と告別式はまだなので、お別れはしていない。お別れの時は、もっとちゃんと労いたいと思う。95年間、お疲れ様でした、ありがとう、と。